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2011年12月18日 - 2011年12月24日

2011年12月18日 (日)

監督が替わっても変わらない町田の本質

12月12日に正式にJリーグ入会が決定した町田ゼルビア。

2004年に元横浜FCの竹中穣(現ヘッドコーチ)などを柱として新しいチーム作りに着手し、「町田からJ」という明確な目標を打ち出した町田ゼルビア。それから8年が経過して、やっと夢の舞台であるJリーグ(J2)にたどり着いたのだが、同期昇格となった松本山雅は「サポーターの力」というものがチームをどんどん「上へ上へ」と押し上げていったが、町田は昔からこの土地に根付いた(サッカーに対する)「土壌」がチームをここまで押し上げてきたと言えるだろう。

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さて、今季の「ポポヴィッチ・ゼルビア」の戦いぶりについては、特に多くスペースを割く必要もないと思うので、ここでは簡単にだけ触れておきたい。

優勝はSAGAWA SHIGA、そして2位に長野パルセイロが入ったことで、町田は結果的に3位という順位で終了したが、「JFLでも魅力的なサッカーを追求する」というポポヴィッチ監督の信念は年間を通じてどの試合でも披露され、正直に言えば優勝したSAGAWAよりも魅力的なサッカーを見せてくれた。試合後の会見では毎回のように「私たちは会場に訪れてくれたサポーターが『また試合を見に来たい』と思ってくれるような魅力的で楽しい試合を見せたいと思っています」と語ってくれていたように、確かに町田の試合は常に主導権を握り、攻撃的姿勢を終始貫いた。その結果として、ホームゲームでは高い勝率(11勝3分2敗)を残し、これが昇格を確定させる4位以内に入るアドバンテージになっていった。

そして優勝したSAGAWAに1勝1分で勝ち越している点から考えても、チーム力が上位2チームに劣っていない証拠と言ってもいいだろう(※長野との対戦成績は1敗1分でした。長野サポの皆さま、すいません…)。また、天皇杯では2回戦でヴァンフォーレ甲府に敗れてしまったが、後半からのパフォーマンスは町田の攻撃力が十分上のカテゴリーでも通用することを証明してくれた。

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このような攻撃的姿勢を、年間を通じて披露してきた町田だが、ポポヴィッチ監督がチームに持ち込んだ「楽しいサッカー、魅力的なサッカー」が結果を出したことは間違いないのだが、それ以上に最終戦の試合後に竹中コーチに続き、町田での在籍年数が長い津田和樹、酒井良の2選手が語ってくれたコメント(一部要約)にこそ、町田の強さを作り上げた本質があったのかも知れない…

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◆試合を振り返って
先週(アルテ高崎戦)は苦しい試合だったので、今週は自分たちの思うような試合がしたかった。そして今日はご覧の通り自分たちのサッカーができたし、一年間の集大成としてもいい試合だったと思っています。(津田談)

全体的に今日はややフワっとした感じで試合に入ってしまったが、尻上がりに良くなってきました。また、前半終了間際のいい時間帯で…が取れたのも良かったと思っています。ポポさんのラストゲームでもあり、怒られながら(笑)プレーするのも今日が最後。だからこそ、選手はみんな気合いが入ってましたね。ただ、寂しい気もしますがね。(酒井談)

◆シーズン終了前に監督の移籍報道があったことに対して
選手としては「そういう話しがあるんだ…」程度にしか受け止めていなかった。ただ、ポポさんのことを気にする以前に、自分たちは「昇格する」ということしか頭にありませんでした(津田談)

うーん… 選手は図太かったのかな? と思います。前にも(相馬前監督)そういうことがありましたので、それもしょうがないかな? という気もします。でも、ピッチプレーするのは監督ではなく自分たちなので、監督の動向は気にしませんでした。(酒井談)

◆町田出身のお二人の今の感想
僕も良さんも町田出身で、ジュニアユースで育ちましたが、高校進学の時に(当時の)ユースチームは強くありませんでしたし、また、このチーム自体にまだトップチームもなく、上に上がるという選択肢はありませんでした。でも、今日、僕たちがこのように「上に上がれる」という目標を作って上げられたことは大変嬉しく思っています。(津田談)

長いというか、濃い6年間でした。
始めたときは「Jリーグに行くぞ!」とスタートしましたが、夢のようなちょっと現実のような気分で始めましたが、目標にたどりつけることを信じてそれをやってきたけど、ここまで出来るんだなあ…と。終了のホイッスルが鳴った瞬間に感慨深い気持ちになりました。

自分たちは、上に上がって地元でプロになるという夢は(当時は)叶えられませんでした。しかし、その叶えられなかった夢を子供たちが叶えられる形を作れたことは何よりも嬉しいですし、これからは子供たちに、もっと夢を持ってプレーしてもらいたいと思います。また、子供たちがいつかこのユニフォームを着て戦いと思って貰えるチームにしていきたいとも思っています。(酒井談)

◆監督がここ3年毎年替わったこと。そしてチームカラーの確立は?
町田のサッカーとしては、ポポさん、相馬さん、戸塚さんや多くの監督さんとやって来ましたが、パスサッカーを柱として、自分たちが主導権を握って試合を運んでいく形でした。(多くの監督がチームに関わったが)相手の動きに呼応してやるリアクションサッカーではなく、自分たちがアクションしてやっていくサッカーは変わってはいません。どんな監督が来てもというか、チーム(クラブが)もそういう(攻撃的姿勢)コンセプトの上で監督を選んでいると思いますので、(だからこそ)チーム全体にそういうサッカーがしっかり根付いているのだと感じています。

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個人的には再びJということになりますが、昔はなかなか試合に出られなかったことを思い出しますし、また挑戦したいという気持ちもあります。しかし、地元である町田というチームでJリーガーとしてプレーできる喜びは人一倍あるし、今は楽しみたいという思いが強いです。(津田談)

町田のサッカーというのは、小さい時からしっかりボールを繋ぎ、決して勝利至上主義にはならないようなサッカーをやってきているので、そういう町田のスタイルをクラブとして持っていると思う。また、今プロとしてプレーしている町田出身の選手たちもそういう思いを持ち続けてプレーしていると思います。

これからどうなっていくかわからないけど、そういうスタイルを持ち続けてJリーグで戦っていきたいと思っています。

Jリーグに(新しく)上がるチームのほとんどがトップが出来てから下を整備していくチームが多いけど、町田は20年以上前から下は充実していました。ただ、このチームにはトップだけがなかった。ホントに、サッカー界ではそれが自然だと思うし、(下が充実してきたことがトップへの道に繋がっていったと)そう考えるとウチはJリーグの「100年構想」の中で理念に沿っているチームなのかな? とも感じます。

まあ、無理をして「子供たち子供たち」と言っているのではなく、本当にこのクラブは子供たちに支えられてやって来たチームだと思っているのです。(酒井談)

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この2人のコメントの中から町田のサッカーのキーワードとなるものとして、少年サッカー熱の高い地域であったこと、勝利至上主義に走らないで自分たちでアクションするサッカーがこの街に根付いているということが窺える。そして、そのアクションサッカーという土壌を作り上げた人こそ、代表の守谷実氏であったり、GMである唐井直氏であり、彼らのサッカーへの熱意、町田という街にサッカー文化を創りたいとい思いがブレずに来たことこそ、このクラブで監督が何人替わっても目指す方向性が変わらなかったと要因と言えるだろう。

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さらには、町田のサッカーを少年時代から体で覚えてきた津田和樹、酒井良、そしてコーチの竹中穣といった存在がチームを牽引してきたことを忘れてはならない。ポポヴィッチ監督だから、ここまで強くなったことも確かになる。しかし、昨年の相馬監督時代も昇格できる順位にいたのだが、強くなっていく根底には「自分たちでアクションする町田の血」がチームにしっかりと根付いていたからこそである。

2007年の地域決勝でJFL昇格に失敗し、2度目のチャレンジ(2008年の石垣島)でやっと上に上がれたが、その先も決して順風満帆とは行かなかった町田ゼルビア。チーム力は戦いを重ねるたびに上がっていき、JFL1年目の後半は実に素晴らしい戦い方を披露して最終的には6位に入るなど健闘。そして勝負の年と位置づけた2010年の相馬体制では、成績的には昇格条件を満たす3位に入りながらも、スタジアム整備の面で条件を満たせず入会見送りとなっていた。

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しかし、チームは諦めることはなかった。代表やGMが地元自治体などに積極的に支援を要請し、さらなるスタジアム改修への道筋をつけることに成功し、条件付きながらもJ昇格への道が開けることに。そしてチームはポポヴィッチ監督の下、非常に魅力ある攻撃サッカーでJ2昇格を決めたのだが、チームを上に導いた監督は皮肉にもその功績、チーム育成手腕を買われて同じく東京都にあるFC東京の監督に就任することが決定。そして町田の来季監督は現時点でまだ発表はない。

だが、上記にもあるとおり、誰が監督をやることとなっても、町田のサッカーに変化が生じることは少ないと感じるのだ。

J2という上のカテゴリーに行った当初は、守備を固めたサッカーで対応する方が、勝ち点を積み重ねる可能性は高い。しかし、引いて守ってのサッカーが通用するのは前半戦だけ。あとは研究され尽くされて、ズルズルと行ってしまうパターンが多いのだが、町田には上に行ってもそのスタイルを是非とも貫いてほしいと願いたい。自分たちでアクションするサッカーで新しくJに加盟してきたチームでも「やれる」というところを見せつけて欲しいかぎりである。

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さて、最後に個人的に町田で思い入れのある2選手について触れておきたい。

試合後、サポーターの下に向かって来季へのアピールをしてくれた酒井良である。

彼は2005年にザスパ草津を戦力外となり、6年という月日を費やしてついにJリーグの舞台へと再び戻ることとなったが、このアピールにもあった「気持ちがあれば出来るんだ」という気持ちがあったからこそ、ここまでたどり着いたと言えよう。

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彼もまた、チーム同様紆余曲折の人生であった。湘南、山形で戦力外という厳しい現実を突きつけられ、プロへの道を求めて沖縄(沖縄かりゆし)に渡った。しかし、ここではチーム自体のゴタゴタもあり、満足したパフォーマンスを残せない中で、当時JFLからJリーグ昇格を目指していた草津からのオファーが舞い込み、沖縄から群馬に活動の地を移す。そして2005年に再び酒井はJリーガーとしてピッチに立ったが、ご存じの通り当時の草津は戦力的にもJ2で戦うことは非常に厳しい状況で、チームはダントツの成績で最下位に沈み、酒井良自身もこの年で戦力外となり、当時関東リーグ2部だった町田ゼルビアに移籍していくことに。

しかし、結果として町田への移籍が「サッカーへの情熱」を甦らせ、さらには育った地元への「恩返し」という思いが生まれることとなり、この年になっても現役でやりつづける原動力を生み出すこととなったと言えよう。

来年、敷島に「凱旋」した時には、ぜひとも拍手で迎えたい選手である。

そしてもう一人の選手は太田康介である。

中央大学時代はキャプテンとしてチームをまとめ、いくつからのクラブは彼に興味をもったが、最終的に彼はJリーガーとなることは出来なかった。本人としても、卒業後はプロになりたいという思いが強かったのだが、そのオファーは残念ながらなかったのである。しかし、プロへの希望を持ち続けた彼はトレーニングを継続する意味も含めて、地元にある埼玉SC(現さいたまSC)に所属し、プロへの道を探し求めていく。

この年、関東リーグベスト11に選ばれるなど、ここでも素晴らしい活躍を残し、年末に行われるJクラブのテストに勢いをつけたが、色よい返事をもらえるチームはなく、結果的にはザスパ草津の下部組織である「ザスパ草津・チャレンジャーズチーム」に入団し、プロへの道を探し続けることに。

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草津町にある、「大滝の湯」で働きながらプロ契約を勝ち取るためにプレーし続けた彼だが、当時の監督であった佐野さん(現長崎監督)からは能力を非常に高く評価された。そして今でこそ町田不動のCBとなったのだが、実はこの時期にも「コースケが後ろに入った方が安定する」という理由で、CBを経験していた。また、佐野さんも「コースケのフィードは安定している」と口にするなど、後に開花する才能をすでにこの時点で見抜いていた。

そして以前も書いたが、彼の能力は当時トップチームの監督であった植木さんの目にも留まり、シーズン終了間際にはトップチームに合流。そしてコースケにも来季の契約のチャンスの目が生まれたのだが、結果的にチームの編成枠の都合上、秋葉忠宏(現水戸ヘッドコーチ)との二者択一となり、最終的に当時の所属先だった徳島からの移籍金が発生しないこととなった秋葉を選択し、コースケは草津を去ることとなる。

この時点で、正直一度はプロになることを諦めかけたと語ってくれている。しかし、選手としてはもう少しプレーしたい。そんな思いもあり、彼は横河武蔵野へ移籍する。ここでは大学院に通いながら教職への道を模索し、さらには生活の糧も捻出しなければいけないため、酒屋でのアルバイトをやりつづけ、そして夜は横河電機グラウンドでの練習という、多忙な毎日を送ることとなる。

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しかし、そんな多忙な毎日を過ごしながらも、選手としては非常に充実した期間を過ごし、横河武蔵野時代ではJFLベスト11にも選ばれ、チームとしても2位という素晴らしい成績を残していく。だが、そんな充実した選手生活を送りながらも、自分の自由になる時間も少なく、シーズン終了のたびに「もうやめようかなあ…」と何度か思ったそうである。

だが、彼のプレーに熱視線を送る人間がいたのである。
それは町田ゼルビアのコーチである竹中穣であった。

竹中の誘いもあり、Jリーガーではないが、ついに町田で念願のプロ契約を勝ち取れた太田康介。新監督に迎えられた相馬監督もそのプレーは認められ、ボランチでレギュラーとして出場を続けていたのだが、シーズン終盤にやや失速してしまい、レギュラーの座を奪われたままシーズンは終了。そして今季はポポヴィッチ体制となり、新規一転となったが、ここでもコースケはレギュラーを掴めないままであった。

しかし、彼にとってもチームにとってもターニングポイントが訪れる。それは6月5日、長崎でのアウェーゲームであった。この試合で、長崎攻撃陣にズタズタにされ、町田は1-5と大敗。そしてこの試合後から、ポポヴィッチ監督はそれまでチームではボランチのポジションでプレーしていたコースケをCBにコンバート。いつでも試合に出られる準備はしていたし、試合に出られるのであれば、ポジションはどうでもいいとコースケは語ってくれている。

そしてポポヴィッチ監督やコーチから「ラインコントロールをしっかりとする」「コンパクトにラインを保つ」「タイミングを見ながら上手く体を入れる」という指示を徹底。また、監督からは「我慢強くやれ」と言われ続け、それを見事に実践しきったコースケはその後は不動のCBとなり、チーム躍進に大きく貢献。

そしてJリーグ昇格を決めたあとにこのように語ってくれた。

「今思うと、やめようと思ったときはいくらでもあったけど、本当にやめなくて良かったと思います」

来季の監督が決まらない今、コースケがこのままCBで行くのか、それともボランチに戻るかはまだ不透明。しかし、来季、晴れてJリーガーとしてピッチに立つことだけは確実な状況である。酒井良が6年かかってJリーグの舞台に戻ってきたが、太田康介も大学卒業から紆余曲折を経て、7年かかってやっと夢であったJリーグの舞台に到達する事が出来たのである。

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素直におめでとうと言いたいし、自分を選択しなかった植木さんに、敷島のピッチで「目に物」を見せて欲しいとも思うところである。

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